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広報あつぎ 第1320号(2020年2月1日発行)

民話でたどる厚木の歴史 今と昔が重なるところ(1)

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神奈川県厚木市

厚木市は、大山の参詣道(さんけいみち)と相模川の水運を礎に、交通の要衝として栄えてきた。
市内には、その面影を感じられる民話が多く残っている。
私たちはどこから来て、どこへ行くのか─。
特集では、民話をひもとき、過去と現在が重なる場所をたどってみた。

■玉川・南毛利
筑波山(茨城県)から大山へ参詣に訪れた山伏が、玉川にせきを造ろうとする民衆のために、命をささげた事を伝えている

▽人柱(ひとばしら)になった山伏(やまぶし)
1576年は、6月初めから1カ月間も雨が降らない日照り続きの年だった。干ばつに困った長谷村の領主は、地域を流れる玉川の上流(小野)にせきを作る工事を始めた。しかし、川の流れが激しく、力を合わせて打ったくいも土を詰めた俵もたちまち流されてしまう。
困り果てた村人たちの前に、馬に乗った一人の山伏が現れた。山伏は「大山寺(おおやまでら)へ参詣したら、皆さんを助けるためにまた戻ってくる」と言って立ち去った。
翌日、村人の前に現れた山伏は「私がくいになろう。そうすればせきは完成する。ただし、今後一切この川にくいは打たぬこと」と言い残し、川に飛び込んだ。その後は、山伏の言葉どおり川の水がせき止まり、枯れかけていた田んぼに水が流れた。村が干ばつから救われたことを感謝した領主は、山伏の霊を自分の屋敷近くの山に祭り、「堰大明神(せきだいみょうじん)」として長谷村の守り神とした。また、玉川のせき跡には山伏の着ていた衣を埋めた「衣塚(ころもづか)」を建て、その徳をたたえた。

■相川・厚木
戸田は、相模川の船着き場が近く、江戸時代には大山参詣をする旅人でにぎわった。海老名と厚木を結ぶ戸田の渡しは、大山参詣や物資の輸送のため、明治の初めまで盛んに使われた。江戸時代の画家・歌川広重(うたがわひろしげ)や渡辺崋山(わたなべかざん)が訪れ、厚木の情景を作品に残している

▽かずさ道者(どうじゃ)の髪の毛
江戸時代、大山へ向かう道「大山道」を通る旅人でにぎわった戸田で、一人の道者(大山に参詣する人)がお茶屋に入った。一息入れるとまた大山を目指して歩き始めたが、どうしたことか、ばったりと道に倒れてしまった。近くの村人たちがすぐに駆け寄り介抱したが、ぐったりして起き上がる力がない。苦しい息の下から「自分は上総(かずさ)(千葉県)から来た者で、大山参詣に行く途中だった」と言うと、たちまち息を引き取ってしまった。村人たちは、名前も住所も分からないまま死んだ道者を善養院(ぜんよういん)というお寺に葬ることにした。道者の髪の毛をはさみで切り落として瓶に入れ、手厚く葬った。
やがて長い年月が過ぎ、この「かずさ道者」が村人たちから忘れ去られようとしていたある日のこと、一人の旅人が戸田の宿場にやってきた。聞くと、「かずさ道者」に縁のある人だという。古くから言い伝えられていた場所を掘ってみると、言い伝え通り、髪の毛とはさみが出てきた。喜んだ旅人は、髪の毛とはさみをふるさとに持ち帰った。

■依知
今も交通量の多い依知神社の近くは、平家や源家など、時の権力者も訪れる交通の要衝だったことが分かる

▽依知神社の赤城神馬(あかぎしんま)
平安時代の中頃、平将門(たいらのまさかど)が依知神社に参拝した。ちょうど相模川が氾濫した後で、土手は崩れ、田畑は泥沼となり、村人は途方に暮れていた。復興の手助けをしたいと考えた将門は、赤城山(群馬県)の神馬を与えた。馬の働きで、復興は順調に進んだ。喜んだ村人は、将門と赤城山の神馬を神社に祭り、赤城明神社(みょうじんじゃ)とした。
さらに鎌倉時代、源頼朝(みなもとのよりとも)の子・頼家(よりいえ)が建物再建の記念にイチョウの木を植えた。市指定天然記念物のイチョウがそれだといわれている。
※神馬は、神様が乗る馬のこと

■荻野
弘法大師(こうぼうだいし)が開いたといわれる松石寺(しょうせきじ)には、遠方からも多くの巡礼者が訪れた。この寺で修行した僧が子どもたちに勉強を教えたのが、荻野小学校の始まり

▽白キツネのどくろ
昔、上荻野の松石寺に徳の高い和尚(おしょう)がいた。あるとき、寺に一人の小坊主がやって来て弟子になった。小坊主は一生懸命修行に励んだ。
ある日、小坊主は厚木村に遣いに行ったが、帰り道で吠える犬に追い掛けられた。もう少しで命を落とすところだった。
青い顔をして寺に戻った小坊主は、「実は私は、キツネである。和尚様を慕って修行したが、犬に正体を見られ、危うい目に遭った。やはり、どんなに修行しても獣には俗界を離れることは無理と分かった。山に帰り、元のキツネとして暮らすことにする。和尚様への恩は決して忘れない」と打ち明けると、裏山に消えてしまった。
その後、裏山で白キツネの亡きがらが見つかった。よく見ると手はしっかり合わされ、和尚が渡した数珠が掛かっていた。和尚は、キツネの亡きがらを丁寧に葬り、どくろを本堂において供養を続けた。また、子どもの像を刻んで、在りし日の小坊主の思い出とした。

■小鮎
大山道や相模川の水運を使い、この地には多くの商人が訪れていた。「おきぐすり」で有名な富山の薬売りも訪れていた証しが残っている

▽越中(えっちゅう)へ行った大蛇
ある年の夏のこと。富山県から来た行商の薬屋が、飯山地区を回りながらこんな話をしていた。「故郷の、とある家を訪れた時、そこで働いていた女中と世間話をした。すると『私は相模国(さがみのくに)の飯山村に住んでいた大蛇の化身である。昨年の夏、小鮎川の洪水で、ほこらと一緒に流されてしまった。後に海を渡り、越中国に流れ着いた』と話す。驚いたので相模国の行商でここを訪れた」と話した。
飯山の地には、確かに水の神・弁天様が祭られていた。越中富山にも、同じく弁天様が祭られているそうだ。
※大蛇は水神として信じられている

■睦合
妻田地区には、語り継がれた伝承が地名として残る。地域のシンボルとして親しまれている

▽妻田の薬師(やくし)と大クスノキ
クスノキには、有名な戦国武将にまつわる逸話もある妻田薬師堂のある僧がお堂で休んでいる時、こんな夢を見た。庭のクスノキが灯籠になり、お堂が昼のように明るくなる夢だ。僧が身を清めようとして池へ行くと、一夜のうちに蓮の花が咲いて、白い根が池一面に広がった。そこでこの地を白根と呼ぶようになったという。
境内のクスノキは県指定の天然記念物で、戦国時代の1569年、武田信玄(たけだしんげん)が小田原を攻めた帰り道、夜中に軍を進めるためにこの木に火を付けて明かりとしたという話も伝えられている。

〒103-0013 東京都中央区日本橋人形町2-21-11 山竹ビル